昨日、入手した
福吉神幸祭に関する県の資料。
非常に重要なのでテキスト化した。





『福岡県の祭り・行事-福岡県「祭り・行事」調査事業-』
福岡県教育委員会2024
福吉神幸祭
【テーマ】九「村連合」
【別名】 福吉くんち、白山神社秋季大祭、神事など。
【地域の概要】
「福吉神幸祭」と言った場合、通常は「福井地区」と「吉井地区」 で行なわれる神幸祭の総称として用いられている。本項目では、この福吉神幸祭のうち「福井地区」で行なわれている福井神幸祭を中心に取り上げ、「吉井地区」およびその周辺の類似行事である「深江神幸祭」 については末尾にて触れることとする。
福井神幸祭を行う地域は、旧怡土郡の福井村・佐波村・大入村・福井浦にあたる。『福岡県地理全誌』によれば、これらの村はいずれも福井村の内であったが、元禄四(一六九一)年に佐波村・大入村・福井浦が分かれて別村になったとある。同年は、この地が唐津藩から幕府領に代わり、土井氏が入封した年にあたっており、それを期に分村が行われたものと考えられる。なお、各村の戸数・人口は、福井村 (九八戸、四六二名)、佐波村(八〇戸、三七一名)、大入村(七七戸、 三三三名)、福井浦(二三戸、人口不詳)となっている(『福岡県地理全誌』)。
【伝承地】白山神社(糸島市二丈福井四九〇九
【実施時期】每年一〇月第二日曜日
【伝承組織】福吉地区(旧怡土都の福井村・佐波村・大入村・福井浦)
【由来・伝承】
福吉神幸祭は、秋の恵みに感謝を捧げる祭りとされており、江戸時代後期から約四百年間は続くと伝えられている。
実際、近世の資料に、「毎年恒例之大祭九月十九日」「神輿ヲ松原仁神幸仕候」(『神社由緒書 福井村・同浦』(山崎竜文書)と記されていることからも、松原への神幸が近世以来行われてきたことが裏付けられる。
また、『福岡県地理全誌』の白山神社の項には、次のように記されている。
祭神伊弉諾尊伊弉冉尊菊々理姫命。祭日九月十九日。此日ハ神輿ヲ松原二神幸ナシ奉ル。大入・佐波・福井浦の村民供奉ヲナス事、今二例ナリ。古ヨリ宮座ト称シテ祭田ヲ寄附シ祭礼ヲ執行シケルカ其事今ハ絶タリ。棟札アリ。銘二從保延七歳辛西至元禄八年乙亥。相当五百五十五暦ト記セリ。外二元亀元年午九月、御幸ノ連名書ヲ村民今二所蔵セリ。
この記事によれば、九月一九日の祭礼において松原までの神幸があったこと、大入・佐波・福井浦の人びとが供奉していたこと、以前は宮座によって祭礼が行われていたことなどが分かる。また、当社の棟札の銘に保延七(一一四一)年には社殿があったと記されていることや、元亀元(一五七○)年の神幸の連名書が残っていることなども記されており、当社と神幸祭の歴史的由緒を知ることができる。
【実施内容】
以下、令和四(二○二三)年一〇月九日に実施した大入区での現地調査を中心に、関連資料で内容を補いつつ行事の内容を説明する。また、令和五(二〇〇二三年一〇月八日の吉井神幸祭、同一五日の深江神幸祭の調査により、関連行事の項を補った。
一 前夜祭(宵宮祭)
祭り前日の第二土曜日には、前夜祭がある。二〇時から福井白山宮で祭典があり、稚児舞の奉納の後、御奉遷といって神体を神輿に移す儀礼が行われる。
二 大入白山神社祭典と大名行列の出発
行事当日の八時、大入白山神社で祭典が始まる。ちょうどその頃、大名行列が公民館を出発する。公民館を出る際には、公民館前の広場を左回りに三周回る。順番は、刀(三人) →大筒(二人)→弓矢(二名)→挟箱(二人二組)→大傘(二人一組)→立傘人一組)→羽熊(四名)→赤鉄砲(赤児と両親)の順である。刀・大筒・弓矢は正装した児童、挟箱から羽までは紺の着物に水色の帯をした児童と吉年達、そして最後に着物を着た幼児と、その幼児を抱っこひもで抱えた母親、 赤鉄砲を持つ父親が続く。行列が出ていくと、公民館に残った女性達が掃除や片付けを行う。 祭典が終わる八時二〇分頃、行列が大入白山神社に到着し、大名行列の一同も拝殿に入る。
三 大名行列の構成と所作
大名行列は、「エイッ エイッ」という掛け声に合わせて足を進める。
なお、履き物は本来草鞋履きであったが、かなり前から地下足袋を履くようになっている。また、挟箱は、以前は裸足で行列に参加することになっていたという。
刀・大筒・弓矢を持つ子ども達は、道具を両手で持って右肩に載せて進む。
扶箱は二人で組になり、狭箱を持つ方は挟み箱を右肩に載せ、扶箱を持たない方は両手を左右に広げ、「エイッ」の声に合わせて掌の向きを変える。その際右の掌が上であれば、左の掌は下にと、向きが逆になるようにする。
大傘は二人で組になる。大傘を持つ方は、「エイッ」の声に合わせて腰を低く沈めつつ、左足を左前方に大きく踏み出す。そして、左足のかかとの後に右足のつま先を添えるように立てる。次に右足を右前方に大きく踏み出すと、左足をその後に添える。これを繰り返して進む。また、大傘は右手で持って右肩で担ぐ。「エイッ」の声に合わせて掌の上で大傘の軸を右回り、左回りに回転させて進む。大傘を持たない方は、足の運びは持ち手と同じで、「エイッ」の掛け声に合わせて右手の甲を額の前に振り上げると、左手の甲は背中の腰の辺りまで振り下げる。これを左右交互に繰り返して進む。
立傘は二人で一組となり、その所作は大傘と同じである。
羽熊は四人一組となる。羽熊は右手で持って右肩に乗せて支える。 「エイッ」の声に合わせて左足を前に出し、右足をその横に添える。 手は、左手を水平に伸ばし、挙を下に向ける。次に右足を前に進めると、左足をその横に添え、左手は下に下ろす。
赤鉄砲は、初宮着物を着た0歳の男児を、母親が抱っこひもで抱え、その脇にスーツを着て赤鉄砲と竹刀を持った父親が並んで進む。なお、赤鉄砲と竹刀は、今は神社が用意しているが、昔は家で準備していたという。また、行列に参加するのも以前は父親だけであったが、現在では両親で参加することもある。子どもが少なくなっているので、令和四(二○二二)年度は三年ぶりの参加となった。
道中には注連を付けた榊を挿した場所があり、そこに差し掛かると、 挟箱・大傘・立傘の持ち手が交代する。新しく持ち手となる方の一人が「代わるぞー」の掛け声のあと、手を二回叩いて合図をすると、持ち手を右側から追い抜いて前に進み、進行方向と逆方向を向いて、持ち手と向かい合う。大傘と立傘の持ち手は、傘を両手で逆さに持って円を描くように回す。そして後の持ち手が前の人に道具を渡すと、渡された方は進行方向に向き直り、行列を続ける。
四 大名行列が福井白山神社に集まる
八時半頃に大入白山神社を出発する。大入西口にて、人員と荷物を車に移し、九時四○分頃までには福井白山神社に入るように調整して出発する。
なお、福井白山神社に到着する順番と時間は、最初の佐波は九時七分頃、最初の佐波は九時七分頃、続く大入は九時一〇分頃、福井(東・西)は九時四七分頃である。 九時五七分に神輿の前で神事が開始される。修祓・祝詞・撤僕と続き、市長の挨拶がある。
五 お下り
一〇時二〇分に「お下り」となり、神輿と行列とが福井白山神社を出発し、松原にある番所御旅所に向かう。以下に、令和四(二○二三) 年度の大入白山神社神幸祭行列を示す。
行列の先頭には、道を清める役の人が進む。桶に入ったお汐井に勝葉をつけ、その榊葉を左右に振って、道をお汐井で清めながら進んでいく。
その後を大名行列が進む。最初が福井東である。順番は、赤鉄砲(幼児と両親)→御幣(一人)→挟箱(四人二組)→大傘(二人一組)→立傘 (二人一組)→羽熊(三名)である。
その後に大入の行列が続く。順番は、刀(三人)→大筒(二人)→弓矢(二人)→挟箱(四人二組)→大傘(二人一組)→立傘(二人一組)→羽熊(四人)。
続く佐波は、鋏箱(二人一組)→大傘(二人一組)→立傘(二人一組) →羽熊(三人)。
最後の福井西は、挟み箱(二人一組)→大傘(二人一組)→立傘(二人一組)→羽熊(四人)である。
続いて楽人と神輿となる。雅楽楽人の先頭は太鼓(一人)で、棒をわたして前後二人で担ぐ。続いて篳篥(一人)・笛(三人)・神輿の順に進む。神輿は台車に載せて移動する。神輿の担ぎ手は厄年の男性(八人)である。その後を稚児舞の女児(三名)、宮司・神職と続き、最後に一般の参列者が進んでいく。各地区の神社役員は「奉納」と書かれた色とりどりの旗を掲げて進む。
大入は、紺の着物に水色の飾り帯、手には手甲、足は紺色のゴム足袋を着ける。赤鉄砲一名、刀三名、大筒二名、弓二名、扶箱四名、大傘二名、立傘二名、羽熊四名であった。
福井は東西の二区に分かれており、東は、藍の着物に水色の帯で、足は脚絆に白のゴム足袋を着ける。挟箱四名、大道具一名、立章二名、 台傘二名、大道具二名、稚児舞一名、刀一名、赤鉄砲一名であった。
西は、藍の着物に白い帯を着け、足は脚絆を巻いて白いゴム足袋を履く。鋏箱二名、立傘二名、台傘二名、大道具三名、児舞二名、行事二名であった。
佐波は、藍の着物に水色の帯、脚絆と足袋に草鞋履きである。挟み箱二名、大章二名、立傘二名、羽熊四名で、いずれも青年が務めていた。
六 御旅所祭典と海上パレード
一一時には番所御旅所に到着し、祭典がある。最初に神職が海に向かって祓い、その後、祝詞奏上、稚児舞と続く。稚児舞は三人の小学生女児が赤や鈴を採り物にして、右に左に旋回する舞である。稚児舞が終わると、宮司・福井区長(総代,業師代表も一緒)・大入区長(総代も一緒)・佐波区長(四地区の総代も一緒)、厄年代表(神輿担ぎの六名)、崇敬会代表、糸島市長、糸島警察署長、市議会議員、福ふくの里社長の順に玉串を奉納する。続いて撤観、宮司一拝があり、 一一時四〇分頃に祭典が終了となる。その後、直会がある。
本来は直会の後に餅撒きを行うが、令和四(二○二二)年度は新型コロナウイルス感染症の影響もあり、餅撒きの代わりに餅配りを行った。また、例年通りであれば御旅所前の海で、大漁旗で飾られた漁船による海上パレードが行われるのだが、やはり新型コロナウイルス感染症の影響で中止となった。
この間、御旅所近隣の家にフリコミをする。本来フリコミは白山神社への還御終了後に行うのであるが(後に詳述)、この辺りは神社から距離があるため、御旅所祭典に合せてフリコミを行っている。
七 お上り
一一時五〇分頃には「お上り」となり、福井白山神社に向けて出発する。一二時二二分に神輿が到着すると、神体を本殿に戻し、宮司が祝詞を唱える。一二時三五分に祭典が終わり、宮司挨拶があって終了となる。
祭典終了後は各区に戻る。大入区では、車に人員と荷物を積み込み、福井白山神社を出発する。大入公民館に到着すると、そこから再び行列を組んで大入白山神社へ向かい、その後、行列は公民館に戻り、一四時頃には行事終了となる。なお、この行程はその年の当番区や天候によって変更されることもある。
八 フリコミ
その後、フリコミが各家々を回る。フリコミの際には、鋏箱・大傘・立傘などが各家を訪れ、大名行列の所作をしながら家の玄関前まで進む。そして、挟箱を先頭にほかの子どもや青年達が立ち並び、「言うぞー」の声を合図に、「エイッふりこむところは大繁盛 エイッ」 と全員で祝言を唱えて終わる。終わると、一同は頭を下げて「どうもー」と挨拶をし、御祝儀やお菓子、ジュースなどを貰うと、次の家のフリコミへと向かう。フリコミの時間はおよそ三○秒ほどである。
フリコミを頼む家は氏子の家であるが、その際には、病気平癒などを祈願する人もいる。また、座舞といって、組で頼んだ場合には組毎に炊き出しを行うこともある。
この年、大入地区では、ブリコミをやりたいという子どもや若者が多かったので人員を選抜した。昔は大百姓の子どもや若者たちが優先だった。子どもたちはお菓子がもらえたり、お小遣いが稼げたりするので、こぞって参加していたという。
各家へのフリコミが終わると、祭りはすべて終了となる。
【類似行事・関連行事】
本項目冒頭にも記したとおり、糸島市の旧怡土部には、同様の浜降りの神幸行事が多くみられる。東から順に、深江神社の深江神幸祭(一〇月第三日曜日)、浮嶽神社・吉井白山宮の吉井神幸祭(一〇月第二日曜日)、鹿家白山神社の神幸祭(一〇月第二日曜日)となる。これらの地域は、近世初期にはいずれも唐津藩に属していたが、延宝六(一六七八)年以降、幕府領・唐津藩領・中津藩領・対馬藩領などに分かれたものである。
いずれも大名行列を伴った神幸行事であり、海の御旅所へとお下りが行われることや、複数の村連合で行われる特色に共通性がみられる。しかしその一方では、それぞれの地区の違いも認められ、各地区の人びともその差異を自覚して、自分たちの地区の特徴として意識しているようである。たとえば、本行事の特徴ともいえるプリコミの歌詞を挙げても、次のような違いが認められる。
【深江神幸祭】
元町
せーの、いえーとこさーさっさー、とこさーさっさっさー、ふりこーむところーはー金の山、いぇーい、とこさーさっさー、とこさーさっさー、ふりこーむところーはー金の山、いえーい、とこさーさっさー、 とこさーさっさー、ふりこーむところーは―金の山、いえーい、とこさーさっさー、とこさーさっさー、ふりこーむところーはー金の山、いえーい。
宮小路
さんはい、いえーえい、いえーえい、いえーい、いえーい、すたこらさっさー、こりゃさのさっさ、はさみばっこもつより、かか(嫁のこと)もたせ、いえーえい、いえーえい、いえーい、いえーい、すたこらさっさー、こりゃさのさっさ、ふりこむーところーは金の山。いえーい、いえーい、いえーい、いえーい、ラスト、いえーい。
【吉井神幸祭】
吉井上
やるぞー、ヘイ、ヘイヘイ、ヘイ、ハイ、ヘイ、ラストー、ヘイふりこむところ、大繁盛、ヘイ。
吉井下
ヘイ、ヘイ、ヘイ、イクゾー、ヘイ、ふりこむところはなお繁昌、ヘイ。
(須永敬)