食育研究家。九州大学講師/糸島市行政区長/1973年、大分県生まれ。農学博士。/年間の講演回数は100回を超え、大人向け学びの場である「大人塾」「ママ塾」「mamalink塾」等も主宰/主な著書に『いのちをいただく』『すごい弁当力!』『食卓の力』など、いずれもベストセラー/新聞掲載、テレビ・ラジオ出演も多数


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30年前のトラウマがふってきた

 

現在入院しているのは
消化器官:肝胆膵
のフロアー。

 

同じ病室には
肝臓がん、膵炎、糖尿病、
抗がん剤治療を受けている人
腹水がたまっている人
と重度な人ばかり。

 

今回の入院で
トラウマが呼び起こされてしまった。

 

30年前、父親が亡くなる前日
南大分の織部病院で看病したあの夜の感覚が
ふと降ってきた。

 

その日のことは
著書『あなたが生まれた日』
のあとがきに書いてある。

 

私の父は、私が20歳になった7ヶ月後に亡くなってしまった。大学3年のときのことだ。
父は、私が6歳のときに肝臓を煩い、「ゴーシが成人するまでは死ねん」と大好きだったお酒を一切やめて養生した。そして、約束通り、私が20歳になった7ヶ月後に亡くなってしまった。
その年の4月、福岡で一人暮らしをしている私に母から電話があった。
「お父さん、ガンって…。もう数ヶ月しか、もたんって…」
電話の向こうの母は気丈に振る舞っていたが途中から涙声だった。
体調がすぐれないと検査したら、ガンが肝臓にひろがっていたらしい。薄い霧のように、肝臓全体に広がり、手術とかはできないということだった。数ヶ月前の検査では見つからなかったのに、一気にひろがっていた。47歳と若く、体力があったこと、そして、肝臓のために栄養を摂っていたことがガンにも栄養を与えてしまった、ということだった。
それから何度か帰省した。父の体調はいよいよ悪化し、入院することになった。
父には検査入院と言っていた。
すぐに帰省することにした。福岡で、ありとあらゆるお土産を買いそろえ、お見舞いとして病院にもっていたら、博多名物のイワシ明太を見て「俺は病人なんぞ!そんな生くせーものが食えるか!」と怒られた。
「せっかく買って帰ったのにそんな言い方せんでいいやん!!」と反撃した。それが、
最後の親子げんかとなった。
母は、毎晩病院に泊まり込んで看病した。不眠不休だった。母の方が、先に、くたばるんじゃないかという感じだった。
そこで、私がはじめて病院にとまり、看病することになった。
とても寝れないような病院の椅子に20歳の私は不満いっぱいだった。とても、わがままで、優しくなくて、傲慢だった。
夜になって父が言う。
「お母さんを呼んで、おまえは帰って寝ろ!」
「お母さんも疲れちょんのやけん」と言っても聞かなかった。
父は、頑固で、私には弱いところは見せなかった。そして、その怒ったような言葉はとてもとても優しかった。私への優しさだった。
それが、最後の父の息子への優しさだった。
母に電話をして、病院に来てもらったが、私は家に帰らなかった。
帰れなかった。
病状がどんどんと悪化していったのだ。
そんな状況で父は私に最後まで優しかった。
夜が明けるくらいの時間に父は意識をなくし、親戚一同に、病院に来るように電話をした。父の具合の悪いことは、誰にも言ってなかった。
親戚に言ってしまうと、お見舞いに来たときに泣いてしまったりして、敏感な父は何かを感じ取ってしまうのではないか、という母の配慮だった。だから、親戚は何も知らなかったのだ。
その日の朝6時頃、父の意識がなくなって親戚に電話をした。親戚からは「冗談でもそんなこと言うもんじゃねぇ!」と怒られた。
その2時間後、父は47歳の若さで亡くなった。
こんな感じだったから、父は自分が死ぬと知らずに死んでいった。
検査入院を押し通したのだ。
根は繊細な父は、弱気になれば、一気に病状が悪化するのではないかという母の配慮だった。事実、父は、入院前日まで、講演をしていたのに、入院したその日に歩けなくなった。精神の力はスゴイのだ。
父は自分が死ぬと知らずに死んでいったから、私への最後のメッセージなどはもらっていない。
父が亡くなってしまって唯一の心残りは、一度も大人同士の話ができなかったこと、男同士の話ができなかったことだ。

(略)

 

当時、どんな話をしたかを
もう思い出すことはできないが
「腹水が苦しい」
「肝毒が頭に回ってきた」
という言葉だけは
あれから30年経った今でも
耳に残っている。


さて、隣に入室してきた患者さんも
腹水がたまりまくっていて
少し前も6リットルも抜いたらしい。

でも、また溜まって苦しいらしく
先生に
「腹水を抜いてください」
と懇願している。

 

先生は
「腎臓に急激に負担がかかるからねぇ」
と言いながら
あまりに苦しそうな患者さんを
見るに見かねて
再び腹水を抜くことを決断。

 

カーテン越しの隣のベッドで
処置が始まる。

 

先生と患者さん
先生と看護師さんのやりとりが
リアルすぎて
トラウマが降ってくる。

しかもトイレに行くときに
点滴袋のようなものにためられている腹水を
見てしまった。

 

30年前
腹水がたまって苦しんでいる父親を見て
「水が溜まっているなら、水くらい
 注射で抜けばいいのに」
と考えたけど、素人の浅はかな考えだと
先生に相談できなかった。

 

30年前の小さな個人病院では
そんな対応はできなかったのかもしれない。

 

だけど
「腹水が苦しい」
と言ってそのまま死んでいった父親
何もできなかった自分
そのわだかまりがずっと引っ掛かっていた。
心の奥にしまっていたようだ。


この「腹水」事案で
そのトラウマが降ってきた。

今、隣の患者さんは
「楽になった」といい
睡眠薬を飲んでスヤスヤ眠っている。

 

昨晩の夕食は
支給された給食にはバナナしか手をつけず
毎日、晩酌のときにつまんでいたという
「オイルサーディン」を食べ
(それを差し入れする家族もどうかと思うが)
その汁をベッドにこぼしてしまい
部屋が魚臭くなって
看護師さんがシーツを替えバタバタ。

 

懲りない患者だ。

 

だけど
30年前に戻れるなら
腹水を抜いてあげて楽にし
好きなものを食べさせ
肝毒が脳に回り苦しみながら
意識が混濁する前に
睡眠薬でスヤスヤと眠らせてあげたかったと思う。

 

そんな父親の年齢を3歳も越え
2か月後には50歳。
いろんな何かを清算する入院だ。

 

 

 

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