「わたし おかあさんだから」
という歌が炎上しているそうだ。
『あたし おかあさんだから 』
歌:だいすけおにいさん
作詞:のぶみ一人暮らししてたの
おかあさんになるまえ
ヒールはいて ネイルして
立派に働けるって強がってた今は爪切るわ 子供と遊ぶため
走れる服着るの パートいくから
あたし おかあさんだからあたし おかあさんだから
眠いまま朝5時に起きるの
あたし おかあさんだから
大好きなおかずあげるの
あたし おかあさんだから
新幹線の名前覚えるの
あたし おかあさんだから
あたしよりあなたの事ばかり
あたし おかあさんだから
あたし おかあさんだから痩せてたのよ おかあさんになるまえ
好きな事して 好きなもの買って
考えるのは自分の事ばかり今は服もご飯も 全部子供ばっかり
甘いカレーライス作って
テレビも子供がみたいもの
あたし おかあさんだからあたし おかあさんだから
苦手なお料理頑張るの
あたし おかあさんだから
こんなに怒れるの
あたし おかあさんだから
いいおかあさんでいようって頑張るの
あたし おかあさんだから
あたしより あなたの事ばかりあたし おかあさんだから
あたし おかあさんだからもしも おかあさんになる前に
戻れたなら 夜中に遊ぶわ
ライブに行くの 自分のために服買うのそれ ぜーんぶやめて
いま、あたしおかあさんそれ全部より おかあさんになれてよかった
あたし おかあさんになれてよかった
あたし おかあさんになれてよかった
あたし おかあさんになれてよかっただって あなたにあえたから
まぁ、この歌詞自体への賛否は
いろいろあっていいと思う。
歌とはそんなものだから。
問題の根本は、そもそも
「なぜ、おかあさんは子育てが辛いのか」
という自体を考えるべきだと思う。
山極先生の講演を聞き
本を読むと、
ゴリラの母親は
1年間、赤ちゃんをずっと肌身離さない。
ゴリラの赤ちゃんは
小さくて軽いし
自分で母親にしがみつけるし
だから泣く必要もない。
一方、人の赤ちゃんは
よく泣き、よく笑う。
これはどういうことか。
誰かにかまってもらうためらしい。
熱帯雨林の減少などの理由で
人間は熱帯雨林からサバンナに出た。
サバンナに出たことによって
大型の肉食獣に襲われるリスクが高まった。
特に幼児が狙われる。
そこで、多産になる必要があった。
毎年生むためには
離乳しプロラクチンを抑制する必要がある。
授乳をやめプロラクチンの分泌が止まれば
排卵ができるようになり
赤ちゃんが産めるようになる。
だからヒトは
乳歯のうちに離乳してしまう
「子ども期」が存在する。
これは、他の猿やゴリラには見られない。
それは、母親以外が
子どもを育てることができるようにするための
進化なのだ。
ヒトという生き物の特徴、
ヒトをヒトたらしめるのは
- 共食
- 共同保育
である。
つまり
子どもが離乳したら
子育てを他の人に任せていい。
おばあちゃんでもいいし
保育園でもいいし
ママ友でもいい。
これがヒトという生き物の
自然な姿なのだと思う。
一人で子育てしようとするから
辛いのだ。
辛くなるのだ。
ヒトはそんな風にはできていない。
だけどヒトは
自らの手で
核家族化し
コミュニティを破壊した。
そのしわ寄せが
ママと赤ちゃんに集中し
それが
「わたしおかあさんだから」
という歌に表現されたといえる。
ちなみにヒトという生き物は
繁殖能力がなくなってからの老年期が
他の動物に比べて長い。
これは、
孫の出産や世話を助け
子や孫に知恵と経験を伝えるために
進化したといわれている。
ばあちゃんは
悠々自適に暮らしてはいけない。
孫育てをするように進化してきたのだ。
さて。
重要なのは
表面的な現象論を取り上げて
炎上させることではなく
「共同保育」
というヒトという生き物の
あるべき姿を
取り戻すことだと思う。
3歳児神話なんてない。
「お母さんだからこうあるべき」
なんて観念だ。
だから辛くなるし、苦しくなる。
子育てがそもそも辛くて苦しいものなら
ヒトという生き物はとっくに絶滅している。
生き物としてのヒトは
子どもの離乳が終わったら
(離乳が終わる前も)
赤ちゃんを誰かに預け
エサをとりに行き(仕事をし)
お母さんではなく
女性として生きるほうが自然の姿だ。
(じゃないと2人目が生まれない)
じゃぁ、どこに誰に預けるの?
って話になる。
その解決策は
①親と同居するか、近くに住む。
②保育園の待機児童が存在する都市部にはすまない。
③共同保育できるママ友ネットワークを作る。
だろう。
どこに住み
どんな生活をし
どんなコミュニティに属し
どんな子育てをしたいかという
ライフデザインの問題だ。
なんて記事を
山極先生の本に影響受けて
すぐに書いてしまう。
わたし ゴーシ先生だから。
(写真は、飛行機から見た東京の夜景)