先日のある小学校での食育講演会。
教員、保護者有志を対象とした研修でした。
アドリブ満載の
90分、参加者の質問に答えていく
という講演にしました。
質問の中で
「いろいろな家庭環境の子どもがいて
できない子どもにあわせざるをえない。
そうすると、
『なんちゃって弁当の日』
になってしまうが
それは教育上仕方がないのではないか」
という声をいただきました。
「弁当の日」黎明期に
よく言われたロジックです。
ふと思いついて
「平等」と「公平」の説明をしました。
学校には
いろんな子どもたちがいます。
体が大きな子も小さな子も
力が強い子も力が弱い子もいるでしょう。
「平等」に同じ重さの荷物を持たせようとしたら
力が弱い子にあわせざるをえません。
力が強い子にあわせたら
力が弱い子は荷物を持てません。
「弁当の日」の達成目標は
「自分で弁当が作ることができる」ですから
作れる子にサポートは必要ありません。
作れない子どもにはサポートが必要でしょう。
場合によっては
手厚いサポートが必要な
家庭環境の子もいるでしょう。
福岡県のH中学校の校長先生。
しかし、H中学校には、
施設から通っている子どもがいます。
施設の厨房を
子どもたちが朝から自由に使うなんて不可能です。
H中学校の先生方は、施設に足を運びました。
「わが校では弁当の日を開始します。
なんとか、この施設の子どもも、
それに参加できるような工夫はできないでしょうか」。
話し合いは何回にも及び、結論が出ました。
弁当の日の前に、
その施設ではアンケートが配られました。
「弁当を作るとしたら、どんなおかずを持って行きたい?」。
弁当の日のその日。
施設の調理員さんは、朝ご飯と一緒に、
子どもたちのアンケートで
人気の高かったメニューも準備しました。
子どもたちに、弁当箱を渡し、
「好きなお弁当を作りなさい」。
子どもたちは厨房を自由に使うことができないから、
施設にできる最善の策でした。
子どもたちは、嬉しそうに弁当をつめ、
「ありがとう~」と言って、
学校に出かけました。
空っぽの弁当箱を持って帰ってきて、
「おいしかった~」
と何度も感謝の言葉を述べたといいます。
施設に入らざるを得ない、
いわば、恵まれない境遇の子どもたちです。
親に見捨てられた子もいます。
だけど、学校の先生がわざわざ足を運んでくれます。
施設の調理員さんが、
自分たちのために、ここまで努力してくれます。
自分たちのことをちゃんと大切にしてくれている。
見守ってくれている。
子どもたちには、それがうれしい弁当の日になりました。
福岡県のS中学校。
やっぱり、パッと考えただけでも、
弁当を作って持って来れないような
家庭環境の子どもが何人かいました。
困ったのは家庭科の先生でした。
子どもたちに、
弁当を作るための知識・技術を与えるのは
家庭科の先生だったからです。
その家庭科の先生は、
弁当の日の意義を知っていました。
そして英断しました。
「その日は、朝七時から家庭科室を開けます。
食材も私が準備します。
弁当を作れない子は朝7時に学校に来るように言います」。
「でも、朝七時に家庭科室を開けようと思えば、
先生は五時起きくらいじゃないですか?
化粧とかもあるだろうし」。
「子どもたちの喜ぶ顔が見れるなら全然平気です」。
こうしてS中学校では弁当の日がスタートしました。
必要なのは
平等な教育ではなく
公平な教育です。
子どもによって
乗らせる台の高さは違って当然です。
台の高さを変えてでも
子どもたちが
「自分で弁当が作ることができる」
ようになるのが重要です。
一人ずつできるようになれば
一つずつ土台は必要なくなっていくのです。
「弁当の日」の実践で求められるのは
「平等」な教育ではなく
「公平」な教育でしょう。