記事『闘病支えた、奇跡のイレブンの贈り物』

「広島にすばらしい校長先生がいらっしゃいます」。

取材先の知人から私にメールが届いたのは5月のことでした。

「いま、がん闘病中です」。

そう文面は続いていました。
病名は多発性骨髄腫。
血液のがんでした。
それから半年。
厳しい治療に耐えた先生は今、自宅で静養をしています。
数カ月に及ぶ闘病の心の支えになったのは生徒たちの存在でした。

 

その先生とは広島県福山市の友道健氏(けんじ)さん(58)。
中学校の教師になって35年になります。
「全ての子どもは必ず輝く可能性を持っている」。
そんな信念を持って、いつも全力で生徒に向き合ってきました。

 

校長は学校の管理職です。
公立校の場合、その上には自治体の教育委員会があります。
このため、校長になると言動が
行政寄りになりがちと言われます。
でも、友道先生は生徒目線を貫いてきました。

 

2009年に福山市神辺(かんなべ)中学校、
13年から大成館(たいせいかん)中学校で校長を務めてきました。
両校とも全校生徒は400~500人規模でしたが、
顔と名前は一致させてきました。

 

生徒には「ほんまもん」に触れさせたいと、
プロ野球選手、
元オリンピック代表、
直木賞作家と
様々な分野の著名人を度々学校に招きます。

 

落語家を呼ぶために、
故・桂米朝さんに直談判したこともあります。
文化祭で生徒がミュージカルを演じるとあって、
修学旅行では劇団四季の劇場を選びました。
そして、生徒のがんばりには、
「ブラボー!」
と拳を突き上げてたたえてきました。

 

そんな日々が突然一転したのは今年の1月のことです。

昨年末ごろから友道さんは腰の痛みを感じていました。
年明けになって病院に行き、精密検査をすると、
1月13日にがんの告知を受けました。

すでに背骨の一部は欠け、進行はステージ2。
インターネットで調べると、
5年生存率は50%となっていました。

 

「自分はあと何年生きられるのか」。
将来への強い不安が募りました。

 

すぐに岡山県倉敷市の病院に入院。
血液をつくる細胞をいったん取り出し、
また自分に移植するという治療に向け、
強い抗がん剤が投与されることになりました。

 

でも、病気になっても生徒の存在が気がかりでした。

特に3年生は卒業間近。
そこで担当医に相談し、
抗がん剤治療の合間に一時退院する機会を得て、
3月9日に中学校を訪れます。

翌日が卒業式。

すでに休職した立場だったため、
あえて式の前日を選び、
全校生徒を前に率直な思いを語りました。

 

その内容はこのようなものでした。

 

人生ってな、本当に思うようにいかんな、と思うよ。
おまえらだって、
勉強しても、勉強しても、
うまくいかないことって、
いっぱいあるじゃろ。

先生も、こういう病気になってからいろんなことを考えて。
人生ってうまくいかないことの方が多いんだわ。
それが当たり前なんだわ。
なんで、おれだけ、そんなこと思ってもしょうがないんよ。
前に進まんのや。
そんなときにな、わしがほんと思うのは、
あきらめんことや。
どんなことがあっても、最後の最後まであきらめんことや。
努力したことは絶対無駄にはならんのや。
ものすごくすばらしい能力を全員が持っている。
おまえらの隠れた能力がまだまだある。
おまえら自身が気付いていない。
他人に頼るな。
自分で伸ばせ。
勉強は自分でするもんや。
スポーツも自分でするもんや。
自分との戦いだ。
最後の最後まで自分を信じ切れるかどうか。
それがあきらめん、ということだ。
わしは、今、その勝負をしよるんだ。
どんなことがあっても、絶対にあきらめん。
絶対にここに立って、帰ってくる。
でも、正直言って、
治療は想像を遥かに超えるくらいしんどい。
でも、しんどいから言って、
泣き言を言ったら、前に進めん。
ここで、あきらめずに勝負するんのや。
自分の生命力との勝負なんや。

 

 

当時、友道さんの胸には将来への不安や治療の苦しさが
交錯していました。
「大成館中の校長としてステージに立つ
 最後になるかもしれない」。
そんな悲壮な思いを抱えていました。

 

そして、再び友道さんは入院生活に入ります。
押し寄せる吐き気に強い倦怠感、痛み、発熱。
抗がん剤の副作用は想像以上でした。

 

友道さんは高校時代にサッカー部で、
教員になってからも若い頃は
サッカー部の顧問をしていました。

校長としては、すべての部活に平等に目を配ってきましたが、
自然とサッカー部に足を向ける機会は多く、
ゴールキーパーの練習でボール出しをすることもありました。

そして、いまの顧問の來山一哉教諭(58)とは
誕生日がわずか2日違い。
気心の知れた「同志」でした。

 

ただ、少子化やクラブチーム人気もあって、
サッカー部は昨年夏に当時の3年生が引退すると、
部員は11人を切ってしまいました。
試合に10人以下で臨むことも。

それでも來山教諭に率いられて、
黙々と練習に取り組みました。
友道さんはその様子をよく知っていました。

 

4月になって1年生が入り、
部はようやく活気を取り戻します。
そして、友道さんが入院していた6月上旬、
福山市とその近隣地域を含めた大会がありました。
出場36チームの中で3位以上になると、
県大会に出場できる重要な大会です。

 

ここで部員たちは決意しました。
「勝って友道先生を元気にしよう」。
そして、目標を優勝に据えました。

 

部は快進撃を見せます。

1試合、2試合、3試合と順調に勝ち、
6月10日に準決勝を迎えました。

0-1と1点リードされていた後半残り5分。

部内で「優勝するぞ」と最初に言い出した
3年生FWの坂本浩太君(15)がキーパーと1対1になると、
同点ゴールが決まります。

さらにアディショナルタイム

またも坂本君がゴールを奪い、
その直後に試合終了のホイッスル。

劇的な勝利で、悲願の県大会出場が決まりました。

 

決勝も前半は0-1とリードされましたが、
後半に準決勝に続いて坂本君のゴールで同点。
延長に入り、2年生のゴールが生まれ、
そのまま逃げ切りました。

こうして初優勝を飾ったのです。

 

その知らせを友道先生はベッドの上で聞きました。
きつい抗がん剤治療に入る頃でしたが、
思わず飛び上がって喜びました。
部員の少ない苦しい冬の時期を知っているからこそ、
それをばねに結果を出したことに涙が流れました。

「奇跡のイレブン」。

彼らを自らの境遇に重ねて、
長い治療に折れそうになっていた心を奮い立たせました。

 

私は6月の大会前に入院先の岡山県倉敷市の病院を訪れていました。
友道さんは病室にパソコンを持ち込み、
フェイスブックで「闘病日誌」を発信していました。
そこで奇跡のイレブンの活躍を知り、
ぜひ彼らに会いたいと思いました。

 

7月末、治療が落ち着いて一時退院していた友道さんと再会すると、
一緒に優勝旗の飾られている大成館中を訪問しました。
サッカー部の3年生4人と会うことができました。

 

4人に受け止めを聞きました。
値千金のゴールを決めた坂本君は
「優勝したら、もう一回友道先生の喜ぶ顔を見られる
 という思いを心に秘めて戦った」
と振り返ります。

 

キャプテンのMF宮澤隼平君(15)は
「最後まであきらめないというみんなの気持ちがそろって、
 その結果で優勝できた。
 勝って、友道先生の病気が治り、
 みんなの前に出てきてほしいと思いました」。

 

DFの林諒太君(15)は
「優勝して驚いたのは自分たち」
と正直な気持ちを打ち明けますが、
「サッカー部が結果を残せば、
 友道先生が喜んでくれるだろうなと思っていた」
と言います。

 

また、同じDFの香川和摩君(15)は
「試合を重ねるごとに
 みんなの勝ちたいという思いが強くなった。
 友道先生のこともあって、
 より一層みんなの思いが一つになって、
 団結できた」
と部員たちの成長を感じていました。

 

8月上旬には3年生の最後の大会がありました。
真夏の炎天下。
試合会場が友道さんの自宅の近くだったこともあり、
観戦に駆けつけました。
グラウンドに立つのは昨年12月以来、8カ月ぶりでした。

 

試合は残念ながら負けてしまいましたが、
「先生のために」
とボールを追う姿に友道さんは再び勇気づけられました。

試合後、
「君らが一生懸命やっている姿がまぶしいから、
 その姿を見てわしもがんばろうと思える。
 みんながいなかったら、
 グラウンドに来られていない」
と感謝の言葉を述べました。

 

こうした生徒たちの存在を支えに友道さんは
8月下旬に再び入院。
治療の最大の山場である移植に臨みました。
そして、無事に成功し、
9月に退院しました。

 

10月、私は自宅で静養している友道さんを再び訪ねました。
全校生徒から届いた励ましの寄せ書きやメッセージを手に、
友道さんは
「生徒を育てる教師はとてもすてきな仕事ですね。
 がんになって、そして今日を迎えましたが、
 『先生良かったね』と言ってもらえたのは、
 この仕事だからこそです」
としみじみと語りました。

 

10月のある日の友道さんのフェイスブックには
こう書かれていました。
「何と幸せな校長なんだろうか!」

 

 

そんな友道さんの教育に対する哲学の詰まった本が10月に出ました。

タイトルは「方円の器」(書肆侃侃房)。

 

方円の器 ―奇跡の中学校長が語る教育と学力

方円の器 ―奇跡の中学校長が語る教育と学力

 

 

水が器に応じて形を変えるように、
人は環境や縁で変わる、
という故事から取ったものです。

 

編集は九州大大学院助教佐藤剛史さん(43)。

「全国に熱血先生はいるが、
 友道先生ほど生徒目線の学校づくりのできる校長先生はいない」
と評しており、
「奇跡の中学校長が語る教育と学力」
と副題を付けました。

佐藤さんが闘病の支えになる目標にしようと提案し、
実現した本です。

 

2人の次の目標は来年2月に開く出版記念パーティーです。

 

 

取材を振り返って印象に残っているのは、
7月末、友道さんと一緒に大成館中学校を訪ねたときのことです。
友道さんは会った生徒一人ひとりと会話を交わし、
「がんばっているか」と声を掛けていました。

 

治療の合間とあって、
体調に気を遣っていた友道さんでしたが、
校門を通った瞬間に表情は「教師」に変わっていました。

 

その時、私は自分の中学校時代を思い出していました。
果たして校長先生にこうして声を掛けられたことがあったのだろうか。
そして、逆に自分が今、
当時の校長先生の顔と名前をなかなか思い出せないことにも気付きました。

佐藤さんの言う友道さんの「生徒目線」を実感しました。

 

実はもう一つ、友道さんの闘病を支えた大きな存在があります。
それは家族です。

 

入院中は妻・伸子さんが福山市の自宅から、
毎日片道50キロの道のりを病院に通いました。

がんについては「早く見つかって良かった」と振り返ります。

そんな「何でもポジティブ」という
伸子さんの前向きな姿勢があったからこそ、
長い治療を乗り切れたのだと思います。

また、1月にがんがわかったとき、
友道さんの脳裏によぎったのは死への恐怖とともに、
「果たして娘の結婚式に無事に出られるだろか」
という思いでした。

夏に結婚式が予定されていたからです。

夏の一時退院は式に出る目的もありました。

副作用に苦しんだ時期もありましたが、
抗がん剤の治療の合間に友道さんは8月、
花嫁の父として式に出ることができたのです。

 

私自身、娘と息子を持つ父親です。
まだ幼稚園児と小学生ですが、
入学式や卒業式、成人式と
育っていく姿を見るのはこれからの楽しみです。

 

一人の親として、
子どもの成長をずっと見つめていきたい。
そんな親としての友道さんの素直な思いに深く共感しました。

 

友道さんの闘病を支えたのは様々な縁です。

それは、友道さんの日頃の姿勢を知っているからこそ、
「先生のためなら」
と多くの人が動いたことを意味します。

 

人と人のつながりの大切さを
「友道校長先生」
から改めて教わりました。

 

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