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『あなたが生まれた日』

大学に着くと
出版社からFAXが届いていた。

『すごい弁当力』8刷
『あなたが生まれた日』3刷
が決定したとのこと。

 

久しぶりに
『あなたが生まれた日』
を手にとって
読み返すと
「え、こんなこと書いたっけ!?」
という具合に新鮮。

 

特にあとがきは
私が生まれた日のこと
父、史朗が亡くなった日のこと
がしっかりと書き綴られていた。

 

すっかり忘れていて
自分が書いた本なのに
読み返して
朝から泣いてしまった(笑)

 


大学生に、
「家族に、自分が生まれた日のことについて
 きいてくること」
なんて宿題を課しながら、
私は、大人になってから、
私が生まれた日のことについて、
聞いたことがなかった。

だって恥ずかしい。
そこで、この本を書くにあたって、
改めて、
自分が生まれた日にことについて聞いてみた。

昭和48年12月7日(金)、午前1:45。
父、27歳
母、24歳のときの長男、
結果として一人っ子として生まれた。

体重、3400グラム。
身長、51センチ。
胸囲、33センチ。
頭囲、34センチであった。

12月6日。
予定日を一週間過ぎ、
明日は診察日という日の午後3時頃、
少量の出血。
おばの車で病院に向かう。

診察をしてもらうと、
先生は「もう髪の毛が見えていますよ」と言う。

母は、そのまま入院し、
おばは大慌てで荷物を取りに引き返した。
あわてすぎて、
ブロック塀で車に傷をつけてしまったらしい。

5時過ぎ、5分間隔で陣痛が始まり、
分娩室に移動。
知らせを聞いて、30分後に、
父とおばあちゃんが病院に駆けつける。

おばあちゃんは分娩室に通され、
父は別室で待つ。
父は、時折聞こえてくる物音、
話し声に耳をそばだてつつ、
溜息をつき、天井を見上げる。
することもないまま
時が少しずつ過ぎる。

分娩室では。
突然、看護師さんが思い出したように
「浣腸、まだしてませんでしたよね。
 これからしますので
 トイレに行ってくださいね」。
「今更?トイレに産み落としたらどうするの!?」
と思いながらも言えず、トイレへ。

墜落産するはなかったが、
3時間、4時間、5時間と時間が過ぎる。

時折、父の咳払いとおばあちゃんの溜息が聞こえる。

「はしたない」と思いつつも、
声を出せば少しは効果があるかと思い、
わざと呻いてみたりする。

陣痛は充分すぎるほど来るのに、
ヘソの緒が首に巻き付いて、
陣痛が治まるとまたペコんと元に戻っていく。

6時間、7時間、8時間。

1:45。

痛みを陣痛とは違う痛みを感じた瞬間、つるり!

そして元気ななき声!

抱きあげられ、
母の眼の前でおおきく手足をばたつかせている嬰児には、
かわいいチンチンがついていました。

そして、父とおばあちゃんと初顔合わせ
「照れ屋で無口な父が、
 初めてみるわが子にどんなまなざしを注いだか。
 あなたにはわかるでしょう?」

それから、三十七年が過ぎた。
残念ながら、その日のことを、
父に聞くことはできない。
私が生まれた日のことを、
父の口から教えてもらうこともできない。

私の父は、私が20歳になった七ヶ月後に
亡くなってしまった。
大学3年のときのことだ。

父は、私が六歳のときに肝臓を煩い、
「ゴーシが成人するまでは死ねん」
と大好きだったお酒を一切やめて養生した。

そして、約束通り、
私が20歳になった7ヶ月後に亡くなってしまった。

その年の4月、
福岡で一人暮らしをしている私に母から電話があった。
「お父さん、ガンって…。
 もう数ヶ月しか、もたんって…」

電話の向こうの母は気丈に振る舞っていたが
途中から涙声だった。

体調がすぐれないと検査したら、
ガンが肝臓にひろがっていたらしい。
薄い霧のように、肝臓全体に広がり、
手術とかはできないということだった。
数ヶ月前の検査では見つからなかったのに、
一気にひろがっていた。

47歳と若く、体力があったこと、
そして、肝臓のために栄養を摂っていたことが
ガンにも栄養を与えてしまった、
ということだった。

それから何度か帰省した。
父の体調はいよいよ悪化し、
入院することになった。
父には検査入院と言っていた。

すぐに帰省することにした。
福岡で、ありとあらゆるお土産を買いそろえ、
お見舞いとして病院にもっていたら、
博多名物のイワシ明太を見て

「俺は病人なんぞ!そんな生くせーものが食えるか!」
と怒られた。
「せっかく買って帰ったのにそんな言い方せんでいいやん!!」
と反撃した。
それが、最後の親子げんかとなった。

母は、毎晩病院に泊まり込んで看病した。
不眠不休だった。
母の方が、先に、
くたばるんじゃないかという感じだった。

そこで、私がはじめて病院にとまり、
看病することになった。

とても寝れないような病院の椅子に
20歳の私は不満いっぱいだった。
とても、わがままで、優しくなくて、傲慢だった。

夜になって父が言う。
「お母さんを呼んで、おまえは帰って寝ろ!」
「お母さんも疲れちょんのやけん」
と言っても聞かなかった。
父は、頑固で、私には弱いところは見せなかった。

そして、その怒ったような言葉は
とてもとても優しかった。
私への優しさだった。

それが、最後の父の息子への優しさだった。

母に電話をして、
病院に来てもらったが、
私は家に帰らなかった。
帰れなかった。

病状がどんどんと悪化していったのだ。

そんな状況で父は私に最後まで優しかった。

夜が明けるくらいの時間に父は意識をなくし、
親戚一同に、病院に来るように電話をした。
父の具合の悪いことは、
誰にも言ってなかった。

親戚に言ってしまうと、
お見舞いに来たときに泣いてしまったりして、
敏感な父は何かを感じ取ってしまうのではないか、
という母の配慮だった。
だから、親戚は何も知らなかったのだ。

その日の朝6時頃、
父の意識がなくなって親戚に電話をした。
親戚からは
「冗談でもそんなこと言うもんじゃねぇ!」
と怒られた。
その二時間後、
父は47歳の若さで亡くなった。

こんな感じだったから、
父は自分が死ぬと知らずに死んでいった。

父は自分が死ぬと知らずに死んでいったから、
私への最後のメッセージなどはもらっていない。

父が亡くなってしまって唯一の心残りは、
一度も大人同士の話ができなかったこと、
男同士の話ができなかったことだ。

そして、私が生まれた日のことについて、
父の口から聞くことが出来なかったことだ。

無口で、
いつも苦虫をかみつぶしているような父だった。
だけど、今、考えても、私は愛されて育てられた。
それは確信している。

だけど、その日、
父が、どんなに喜んで、
何を感じ、何を思ったのかは、
もう永遠に分からない。

分からなくてもいいとも思うのだけれど、
私も、我が子が生まれ、
父になり、その喜びと感動を味わった。

そのことを、同じ男として、
同じ父として、
父と語ってみたかったと思うのだ。

だから、今のうちに、
親が元気なうちに、
親が死ぬ前に、
一人でも多くの人に、
自分が生まれた日のことを聞いて欲しいと願うのだ。

 

 

 

『あなたが生まれた日』
の表紙は虎史朗が生まれた瞬間の写真。

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父に虎史朗
を見せることはできなかったけど
こうやって
本の中で
一緒に暮らしてくれている。

 

『あなたが生まれた日』は
私の作品の中では
影の薄い本だけど(笑)
もっと大切にしよう。